心平年譜 心平の擬音語など 蛙の詩 心平と暮鳥 心平と賢治 竹内てるよ 林芙美子 田村俊子 生家など

2001年96歳でなくなりましたが、「叛く」「第二曙の手紙」時代の、竹内てるよをみてみます。
は、その華麗な作風のかげに、光と、音楽とのかげに、一すじ糸を引いて、午後八時半の透明が流れてゐるのをはつきりと知ることが出来る。| 私の本格的な治療も次第に効果をあげて、詩の雑誌「群生」を発行し、詩の勉強をする私のグループも百人を越しました。月々の集まりにはみな作品をもちよって、棟方志功先生の娘さんである千世栄さんや、いま俳優の中村メイコさんなども、私と詩の勉強を共にする人々の中にあるようになっていきました。メイコさんが大柄のひまわりの浴衣に、黄色い三尺をしめて、私の家の庭で、元気に話す姿を、私は今でも、あの達者なテレビの芸風の中から見ることが出来るのです。当時、いまだ皇室に入られず、正田美智子さまであられた東宮妃が、その母校聖心女学院二年とお書きになり理智的な、詩を送ってくださったのを拝見したのもそのころのことで、かなり感性的なメイコさんの詩に比べて、理智的な詩でありました。その御筆跡を私は今でも記憶しています。 | |
| 頬 「花とまごころ」から 生れて何も知らぬ 吾子の頬に 母よ 絶望の涙をおとすな その頬は赤く小さく 今はただ一つのはたんきやうにすぎなくとも いつ人類のための戦ひに 燃えて輝かないといふことがあらう 生れて何もしらぬ 吾子の頬に 母よ 悲しみの涙をおとすな ねむりの中に 静かなるまつげのかげをおとして 今はただ 白絹のやうにやはらかくとも いつ正義のためのたたかひに 決然とゆがまないといふことがあらう ただ 自らのよわさといくじなさのために 生れて何も知らぬわが子の頬に 母よ 絶望の涙をおとすな |
On the cheeks Of your innocent newly born, Mothers, Do not drop Tears Of your own despair. Though now these cheeks Are red and small, Hardly more than damson-plums, Who knows that someday They would not flush and glow In a battle For humanity. 上は、スイスのバーゼルの児童文学世界大会で、美智子皇后がスピーチした部分です。 |
| わが二十代の日は 風は空に荒れていた すべての鳥やけだものが穴に入つても 人の子は枕するところがなかつた さまよひゆけば 石炭がらの街に 夕陽は 赤く波を打つていた わたくしたちは夢みていた 心平のやきとりやの屋台の灯が みかんいろに コソクリートにこぼれて よごれたのれんから ひげつつらがのぞいた 「やらうぜ」は 合ことば 「やらうぜ」と合ことば 病がどんなものであるかは まづ生きてから 知つてみる 真に自らを打ちたたいて知るより他に この世に生きかたが ないかのやうに わが 二十代の日は 夢みていた 「やらうぜ」の合ことば 真理を人にたづねたりするな お前たちの血をたたきつけて生きてみろ やきとりやは今日も赤字ばかりで 友達の中に腹のくちいものはない しかし 「やらうぜ」こそは 合ことば 心平 思ひ出さう 昔の日を おたがいはもつと親しく もつと烈しく 心平 思ひ出さう二十代の日を そして 再び立ち上らう いまこのとき 「やらうぜ」はいまいちど 合ことばだ |
1930年「弾道」に坂本七郎が竹内てるよを表現する。 第三夕暮の詩 掲示は白く分倍(ぶんばい)河原 |
| 草野心平さんとのめぐりあいは、私が、病気のため結婚生活を追われて、子供と生きてわかれ、人生の悲哀のどん底にあったころでありました。それは、たどりついた友人の、詩を書いていた人のグループにはいり、自分のささやかた文才をもって人生に再起しようとLた、二十五才の年でありまLた。心平さんは、当時「銅鑼」の同人の一人で、私のために「竹内てるよを死なさない会」をはじめてくれた人で、そのおかげをもって、今まで死なずに来たのであります。はじめて会ったころ、夢をもっていた、詩人というおもかげに、一番ぴったりした人が心平さんで、なるほど、詩人とはこういう人をいうのだなと、納得のいった人でした。とりとめのないようでいて、きちんとまとまったという人なのです。あたりがソフトで、細かい神経の働きがあり、そのくせ、ぼうぼうとした大きさが、何ともいえないやわらかさをもった人間像を、つきあう者につたえてきます。おそらく、心平さんと交友ができて、心平さんをきらいになったという人はないでしょう。 「詩のこころ」竹内てるよ 創隆社ジュニアぶっくす |
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