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2001年96歳でなくなりましたが、「叛く」「第二曙の手紙」時代の、竹内てるよをみてみます。

『あるアナキズムの系譜』〈ききがき『渓文社』〉から  秋山清  冬樹社
 「昭和3年の早い頃、その頃有力な誌雑誌『詩神』(広島の人田中清一が出費、福田正夫編集、実務は『銅鑼』の同人だった神谷が当った)に一女性詩人の作品が持ち込まれた。小田急の代々木上原駅あたりに貧しく生きているといわれた病気のその人は、子供をおいて家を出された上に、腸結核で命旦夕に迫っているとのことだったが、持込まれた作品は意外に熱っぽいもので、神谷は福田に相談して『詩神』に掲載した。…もう一つの『叛く』が、高村光太郎の表紙字をもらって活版で出たのは昭和6年4月である。発行兼印刷者は神谷暢、「東京府下六郷町高畑307,啓文社」の刊行であった。この二種の『叛く』が出る二ヶ年のうちに啓文社を渓文社と改め、アナキズム系詩人の一拠点のように見なされることになったのである。」

草野心平の「叛く」紹介
 「学校」第六号にて
「カリエスと肺と腹膜とで、彼女は去年の夏宣告をうけた。その頃角筈で花売りをしていた。(中略)カリエスの膿をとらないため(とると療治が大変なのだ)に鬱血してからだがむくんで手がしびれて、自分で茶碗をもつことができないことがあった。ぼくたちがおちあったとき碧静江君が彼女の口に御飯をいれてやったりした。にも係らず彼女は男をも壓倒する仕事へのエネルギィと朗らかな笑ひとすき透った声をもっていた。(中略)彼女は愛することと叛くことの二つを学んだ。愛するが故に叛く当然に生き戦ふことは吾々の最后に残された正義である。(以下略)      

 竹内てるよ「午後八時半の透明」  

「 あめゆじゆとてちてけんじや
 初めに、宮澤さんの作品をきいたのは、晩春の静かな、うすくらい原宿の家であった。 
 若い心のみの感じる、悲しく、静かなる感激のうちに、きゝなれた北国なまりの言葉のいくひらは、生きてゐるものゝやうに、私の暗い胸の中で、音楽をかなでゝくれた。
 目くるめくばかり、その世界は、華かで何と幻想に一杯であつたか。
  雲はたよりないカルポソ酸
 次にその作品の話を私にしてくれたのは、友人草野心平さんだ。佐渡へ立つといふ、夜のステーショソの汽車をまつあひだ、数々の苦しみを胸に秘めて、何もしらぬ私に話してくれる宮澤さんの芸術の世界の話は残る半生を文学に生きようと切に思ひつめてゐた当時の私に、まざまざと自らの不才とはるかなる前途のすがたを教へてくれるのであつた。あゝ私は忘れない。心平さんの低い声が、耳のほとりから夢のやうに、私を幼い頃の純一な童心にかへしてくれた、あの言葉を――
 友人達の上にも、そして私の上にも、年月は流れすぎた。いま宮澤さんの作品をよんでみると、私は、その華麗な作風のかげに、光と、音楽とのかげに、一すじ糸を引いて、午後八時半の透明が流れてゐるのをはつきりと知ることが出来る。
 午後八時半――夕ぐれの熱が、すつきりと下つて、午後八時半は、すばらしく、頭が澄む。世界のどんな小さな音まで、そして、目にみえないところまでが、心にみえるやうな、病の持つて来るあの恐ろしい透明は、何にたとへたらいゝであらう。水にうつらう月光の青さ、すくへば両手に泡とわれかへるであらう――又、はてしない氷海の黄昏に、一人立ちつくして、銀ねづみに似た薄明を顔にあびたやうな、不思議な、午後八時半の透明である。すぐれた才能が、その寂しさをかくしおはしたとしても、私には、宮澤さんのそのときの気持が、苦しいまでにはつきりと判るような気がする。
 宮澤賢治は、しよせん、みがゝれたる一つの玉である。その美しい作品に、もし生命を吹き込むことが出来たならば、人類の苦悩をその肩に荷負ふことの出来る人であつたと思ふ。
 時の来らずして、亡くなつたことは、惜しいと思ふ。この世にすぐれたる若人の死んでゆくことは、花の散るにも似てゐないか。咲いて咲きあかずに散る花は美しい。よしんば後に悲哀が残るとしても――思ひ出はそれをなぐさめてくれるであらう。  」
〔『宮澤賢治追悼』昭和九年一月〕

海のオルゴール」 竹内てるよ著 などから
 私の本格的な治療も次第に効果をあげて、詩の雑誌「群生」を発行し、詩の勉強をする私のグループも百人を越しました。月々の集まりにはみな作品をもちよって、棟方志功先生の娘さんである千世栄さんや、いま俳優の中村メイコさんなども、私と詩の勉強を共にする人々の中にあるようになっていきました。メイコさんが大柄のひまわりの浴衣に、黄色い三尺をしめて、私の家の庭で、元気に話す姿を、私は今でも、あの達者なテレビの芸風の中から見ることが出来るのです。当時、いまだ皇室に入られず、正田美智子さまであられた東宮妃が、その母校聖心女学院二年とお書きになり理智的な、詩を送ってくださったのを拝見したのもそのころのことで、かなり感性的なメイコさんの詩に比べて、理智的な詩でありました。その御筆跡を私は今でも記憶しています。
    「花とまごころ」から

生れて何も知らぬ 吾子の頬に
母よ 絶望の涙をおとすな

その頬は赤く小さく
今はただ一つのはたんきやうにすぎなくとも
いつ人類のための戦ひに
燃えて輝かないといふことがあらう

生れて何もしらぬ 吾子の頬に
母よ 悲しみの涙をおとすな

ねむりの中に
静かなるまつげのかげをおとして
今はただ 白絹のやうにやはらかくとも
いつ正義のためのたたかひに
決然とゆがまないといふことがあらう
ただ 自らのよわさといくじなさのために
生れて何も知らぬわが子の頬に
母よ 絶望の涙をおとすな


On the cheeks
Of your innocent newly born,
Mothers,
Do not drop
Tears
Of your own despair.
Though now these cheeks
Are red and small,
Hardly more than damson-plums,
Who knows that someday
They would not flush and glow
In a battle
For humanity.

 上は、スイスのバーゼルの児童文学世界大会で、美智子皇后がスピーチした部分です。
 わが二十代の日は

 風は空に荒れていた
 すべての鳥やけだものが穴に入つても
 人の子は枕するところがなかつた
 さまよひゆけば 石炭がらの街に
 夕陽は 赤く波を打つていた

 わたくしたちは夢みていた
 心平のやきとりやの屋台の灯が
 みかんいろに コソクリートにこぼれて
 よごれたのれんから ひげつつらがのぞいた
 「やらうぜ」は 合ことば

 「やらうぜ」と合ことば
 病がどんなものであるかは
 まづ生きてから 知つてみる

 真に自らを打ちたたいて知るより他に
 この世に生きかたが ないかのやうに
 わが 二十代の日は 夢みていた
 「やらうぜ」の合ことば

 真理を人にたづねたりするな
 お前たちの血をたたきつけて生きてみろ
 やきとりやは今日も赤字ばかりで
 友達の中に腹のくちいものはない しかし
 「やらうぜ」こそは 合ことば

 心平 思ひ出さう 昔の日を
 おたがいはもつと親しく もつと烈しく
 心平 思ひ出さう二十代の日を
 そして 再び立ち上らう いまこのとき
 「やらうぜ」はいまいちど 合ことばだ
 

1930年「弾道」に坂本七郎が竹内てるよを表現する。

第三夕暮の詩 

掲示は白く分倍(ぶんばい)河原
南部鉄道へ乗換駅

この武蔵野西北隅の
雲に濡れる一小駅に
汽車を待つのはおれ一人か

冷いベンチに身を凍らせて

目を落とす、眼前を走る鉄のレエル――
荒涼の涯の川崎市外
煙に澱む六郷川

そこに友がいる 病み闘う
この寒風の凛烈にも
挫けぬ、
氷河の床に燃ゆる人
いまおれはおののく

いまおれはひとつの激しき魂に触れんとす
このうらぶれた心身を駆って
人間のゆえのおれの弱小
為すなき卑屈!
あらゆる劣悪なる怯懦なる
おのれの虚妄を踏みにじって

いまおれはひとつの激しき魂に触れんとす
(以下略)

 草野心平さんとのめぐりあいは、私が、病気のため結婚生活を追われて、子供と生きてわかれ、人生の悲哀のどん底にあったころでありました。それは、たどりついた友人の、詩を書いていた人のグループにはいり、自分のささやかた文才をもって人生に再起しようとLた、二十五才の年でありまLた。心平さんは、当時「銅鑼」の同人の一人で、私のために「竹内てるよを死なさない会」をはじめてくれた人で、そのおかげをもって、今まで死なずに来たのであります。はじめて会ったころ、夢をもっていた、詩人というおもかげに、一番ぴったりした人が心平さんで、なるほど、詩人とはこういう人をいうのだなと、納得のいった人でした。とりとめのないようでいて、きちんとまとまったという人なのです。あたりがソフトで、細かい神経の働きがあり、そのくせ、ぼうぼうとした大きさが、何ともいえないやわらかさをもった人間像を、つきあう者につたえてきます。おそらく、心平さんと交友ができて、心平さんをきらいになったという人はないでしょう。
                               「詩のこころ」竹内てるよ 創隆社ジュニアぶっくす